蕩尽

磨いたばかりの口から慣れていない歯磨き粉の味がする。さっきまで壁に打ち付けられた水の音はいつしか止まっていて、しばらくすると風呂場のドアから女が出てくる。ずっとメッセージと電話口である程度の身体を想像していたが、思っていたよりも引き締まっている。

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「暑いね」

「うん」

シャワーまで浴びてるんだからさすがに気が緩む。いつも頭の中で必死に考える気の効いた返しや面白い返しをする気力はもう無い。適当に明日のことをたずねる。

「あしたも早いの?」

「うん、てかほんとにするの?」

「ここまでして何を言うん」

身を引き寄せて静かに横になる。口の中はお互い同じ香り。ジョルジュ・バタイユは、エロティシズムは服を脱がす過程においてしか現れず、脱がせてしまえばそこに無様な裸体があるだけという旨のことを言うが本当にそうだ。衣服を脱がせた瞬間、興奮のピークは徐々に下降し、後は似たような肉体が目の前に転がっている。もし、仮に彫刻のような肉体を目にすれば、そうはならないのかもしれない。盛り上がった尻、胸と腹筋の見事な段差を宿した身体。ふと、都心の大型ジムの近くで声をかけている自分の姿を想像した。

男女問わず口淫が危険なのは百も承知だが、分かっていてもそれが習性として染み付いていて、それをしなければ今、この瞬間に納得できない。飛んで火に入る夏の虫。

しばらくすると果て、互いに抱き合いながらベッドに転がり込む。バタイユのことを考えていたらふと「なぜナンパをするのか」という問いに直面した。性欲の処理をしたいから、それだけではない。愛情を確認したいし、他者を支配したい。果ては、それらは容易いものではなく、殆んどはそこに行き着かないのでそれ故の達成感、優越感を得たい。このようにたくさんある。言ってみれば“過剰”なのだ。

改めて、なぜナンパをするのかと自らに問うたとき、あるいは問われたとき、それは人間が過剰性を抱えた生き物だからと言う他ない。バタイユはこの実存の過剰性の問題を乗り越えるための行動を“蕩尽”と名付け、人間の生の全体性を回復する活動として位置づけた。よくナンパじゃなくとも自慰行為や風俗云々の言説を目にするが、ナンパが性欲の処理という単一の欲望としか結びついていないという認識が間違っている。自慰や性産業を介した経済的な消費行動としてのセックスでは蕩尽できない。

チェックアウトまで数十分、全てを悟ったようにして浴室で身体を洗い、脱ぎ捨てた服を広い集める。もう思い残すことは何もなく、一つ折り合いをつけたようにルームキーを抜き取り、部屋の照明を落とす。そして嘘丸出しの手繋ぎをしながら宿を後にする。