視点の可逆性

f:id:ilE:20240513231531j:image

「梅雨と夏が来る前に」

もっともらしい理由付けをしてこの時期は女をよくピクニックに誘う。パンデミックの時代にだけ盛んな営みのように思っていたけれど、それが過ぎ去った今でも続けている。休日の昼下がり、都市の川に浮かぶ、人工芝が目一杯広がる公園の木陰にブルーシートを敷く。腰かけると近くにはダンスの練習に励む大学のサークル集団や、フリスビーに興じる外国人が目に付く。隣に女がいながらも、露出の激しい短丈のTシャツを着た下品でスケベなダンサーと、くるくると宙を回転するディスクに視線が右往左往する。こちらのここでの過ごし方は様々で、ある女とは昼から互いに持ち寄った食事や酒を盛って「あぁでもないこうでもない」と、流暢に何かを語ることもあれば、またある女とは少しも口を開かずにただ寝っ転がり、時折、その沈黙の間を埋めるように「めっちゃええなここ」なんて言ったりする。

その日は女がコンビニに水を買いに一旦その場を離れた。5月にも関わらず日差しが眩しい。一人になり寝転がって考える。横に目をやると、小さな鳥が降り立っていることに気がつく。すると、いつの間にか鳥の視点に立っていた。食物連鎖に回収されないよう、それぞれがそれぞれの仕方で身を隠し、また、栄養を補給するために活動している。非常に充実した生だと思う。というより、充実させないと明日を生きられないとも言える。自分とよく似ていると思った。このとき、表情に出ていたかどうか分からないけれど、笑みがこぼれる。そのニヤつきが悟られていないか、周りの視線を気にしながら顔を上げて辺りを見渡す。視点が自分に戻ったときに気付く。自分と鳥の視点を往還していた。

f:id:ilE:20240627035719j:image

人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロが打ち立てた〈パースペクティヴィズム〉という概念がある。この言葉を聞くとニーチェを想像する者もいるだろうが、また別である。これはカストロが、アメリカのネイティブ・インディアンの儀式のなかで、生贄としてささげられる人間とささげる人間の視点が交換する現象に着目し、そこから、人間の視点が自らの視点と他者の視点とを交換し得ることで2つの世界の姿が成立することを〈パースペクティヴィズム〉と名付けた。そして、これは人間のみならず、さまざまな動物や生物、植物など自然界の事物と人間が視点を交換し合いながら交感することが可能だという。海中に素潜りしたときに出会う、ゆっくりと泳ぎ回るウミガメの視点になることも、木々に張り付くようにして生い茂る苔の視点になることもある。そして、私が鳥と視点を交換していたように鳥の視点にもなり得る。多種多様な視点の往還運動が発生するのである。

さて、これらはたとえば「狩り」において非常に重要視されていることが、シベリア東部の先住民族であるユカギールの心構えから伺える。彼等によれば、狩りにおいて「獲物に半分同化しながらも、しかし完全に同化しきることがない」という釣り合いを保ちながら狩りに臨むことが、狩りの成功の必須条件であるという。ユカギールの狩人は鹿を狩猟するために、まず、鹿に同化するための精神的な準備として儀式を催す。このとき、視点は完全に鹿と同化している必要があると同時に、狩人自らの視点は冷静に保つ必要があり、完全に鹿の視点だけに立って同化しきってはいけないとされる。それは狩りの失敗を招く。自らの視点と相手の視点の間に自らを配置しながら、その釣り合いをとることによって、狩猟が初めて成立するという。

具体的にどういうことか。

まず、獲物へ半分同化しなければならないのはなぜか?この「半分同化」というのは獲物の「生態を知る」ということである。言い換えれば、なぜ、生態を知る必要があるのか?という問いでもある。それは、こちらが獲物として認識している外界の動物は外敵として他の動物や狩人を警戒しているからである。獲物からの警戒は獲物の視点に立って彼らの生態を理解することで欺き、回避できる。つまり、半分同化は獲物を待ち伏せ、捕らえ、殺すという狩人の一方的な視点だけで狩りに臨むことの不十分さの指摘なのである。二つ目に「完全同化」が否定されるのはなぜか?こちらも換言すると、この完全同化というのは「共感」を意味する。仮に目の前で鹿を捕らえて殺し、腹を割いて内臓の匂いを嗅ぎ、骨を除いて肉を切り、溢れ出た血の匂いを嗅ぐ。そのとき、一度でも生々しい鹿の実体が自らの情動に結び付いてしまうと、もはや「鹿」は「食物」としての代替可能性を失い、鹿の生命をありありと感じて、二度と殺すことができなくなってしまうだろう。つまり、完全同化の否定は狩猟の根底にある暴力、その否定の不可能性への指摘なのである。

ここで、関連して触れておくとユカギールが先の「儀式」を通じて狩猟に出向いているのは、この暴力性の追認を神の許可を得る目的あるいは獲物そのものが神からの贈り物で、儀式はその返礼だと捉えているからであろう。前近代人特有の感覚とも言える。

ところで、こうしたパースペクティヴィズムと視点の可逆性を意識しなければ狩りが成立しないという狩人の指摘について、私はこれが「誘惑」にも同様のことが言えるように思う。誘惑には、仕掛ける側としての自分の冷静な視点が必要であると同時に、自らがどう見えるかを仕掛けられる側の視点に立って想像しなければならない(半分同化)。そして、そこで仕掛けられる側に共感してはならず、それは、たぶらかされ、半ば強引に暴力的に領域に踏み込まれる他者に逐一、憐みを感じていては誘惑が成立しないからだ(完全同化の否定)。これらを踏まえると、いかに誘惑というものが困難さを極めるか痛感することだろう。仕掛ける側の冷静な視点は、仕掛けてきた経験が蓄積されなければ獲得できないし、自らがどう見えるかの「想像力」は才能によってほとんど決定づけられている(言葉を選ばずに言えば発達障害やコミュニケーション弱者は想像力が欠如している)し、仕掛けられる側への「共感」の度合いは培ってきた道徳観や倫理観によって大きく変化する。「人をたぶらかすなんて絶対にできない」という人だっているはずだ。とはいえ、二者関係の成立にあたって「誘惑」は不可欠であり、それを成立させようと努めることを放棄するのなら、全てを「運」に任せるしかない。365日のうち1日、あるいは数年に一度、自らに幸運が降り注ぐのをただ待ち続けることにあなたは耐え得るだろうか。私にはその自信はない。

「共感」と「想像力」、それらをキーワードにして各々が人々と戯れながら、その度合いを調整しようと努めるきっかけになれば嬉しく思う。