人生はじめてのナンパ指導と強烈な3日間

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・10/13
仕事終わりに街に入る。身体が固い。決して地蔵しているわけではないが、目一杯に身体を弛緩させても緊張は解けない。遅れている電車にむしろ助けられているくらいだ。今日はいつもと違う。活動を始めて2年過ぎ、これまで数百人の女と関わってきたが、ここにきて人生ではじめて人からナンパを教わる。

「お〜👋」

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アスリート(@rfvbgtyhb)

40代で路上デビュー、第一線を退く2022年までの総get数は600近くに及ぶ。今回、私が指導を申し出たのは単にナンパの実力があるからという理由だけではない。当人のプライバシーを考慮して詳細には記述できないが、彼の生き方が私の琴線に触れた。決して、安全な生き方をしてここまで来ていない。これは全くの誇張した表現ではなくそれは危険と隣り合わせの、ある種アナキーズム的な人生だ。常識の枠にしっかりとハマる人ではない。そうした人が持つエネルギーとは一体どの程度のものなのか、また、それが自分にうまく作用するのではないかとも思った。そうして今日に至る。

さて、早速、彼の生き方の一端が垣間見えるのが、ここに来るまでの移動手段だ。なんと、ヒッチハイクで首都からここまで移動してきている。走行距離にしておよそ500㎞。私はこの活動を始める前、ナンパなんていうのは嘘丸出しの都市伝説だと思っていて、それはヒッチハイクも同様だった。殆どの人にとって確かな手触りなどなく、途方もない空虚さすら感じるその所業をこの人は簡単にやってのけていた。決して侮れない。と、同時に自分の判断が間違っていなかったと再認識した。ナンパというのは本来、こうした傾奇者に教わるのが道理だ。まず、指導は対話から始まり、現在の自分のスタンスについて語ることを求められた。彼はこれまで専業ナンパ師的な暮らしを続けていて、それに合わせられるかどうかと問われる。私はそこまで注力できないとしても、気分がいい時に適当に街に出て、知り合いと軽く話して、数十声かけて飽きたら帰るという中途半端な女遊びで終わるつもりは全くないということを伝えた。すると、一つ返事で「そうであれば声かけを見た方がいい」と、すぐにナンパを教える準備に入ってくれた。いよいよ、実地で声かけを見てもらう。緊張を覚えながら女の子数人に声をかけていく。すべての場面に共通していたのは、リズム感やアクションを大きく損なうナンパをしていること。彼に言わせれば「スカすな。まだ、言葉でなんとかしようとしている」とのことだった。言語というのはアクションやリズム感が整ってこそ、相手に正確に伝わる。棒立ちの「かわいいー」と身振り手振りを交えた「かわいい!!」では伝わり方がまるで違う。鋭い指摘だった。このスカシを乗り越えるには少々、時間がかかりそうだが、上手い人の音声を殆ど真似できるレベルに聞き込んで実践することで乗り越えられるものだそう。実際に、アスリート音声は流星氏(@suiseinanpa)の声かけ音声にとても似ている。代わって、声かけを見せてもらう。やはりエネルギーが違う。周囲をよく観察しながら、また、ターゲットを走りながら探している。何より、声の通り具合がこれまで見てきた人とは比べ物にならないほどだった。ターゲットとの距離がかなりあってもしっかりと認識されている。単純に声が大きいだけではなく、とにかく通るのだ。私は通る声質ではないので、心底羨ましかった。その後、細かいフォームの修正についての指摘をいただき、次の生徒の指導に移っていった。その後、短時間ではあるが、指摘を意識しながら声をかけていると、若者の間ではひとつのアクセサリーと化した大きなヘッドホンを細い首にかけた、ストリートメンズライクな恰好の女の子が目の前を通った。見失わないように追いかけて力強く発声すると、パーソナルスペースに入らない遠くからでもしっかり反応がとれた。どうやらかなり急いでいる。事情を尋ねると、辞めたアルバイト先に制服を返しにいく途中で、店に伝えた到着予定時間からかなり遅れているそうだ。それでも、足止めはかなったので連絡先を伝えておく。10分ほど経った頃にインスタグラムからDMでデコレーションメッセージを送りつける。返答は淡泊だったが、来ることは決まっていたので待ち合わせた瞬間に自分が出せる今一番のテンションで迎えた。

あーっ!!まっっってたよ~!!

ここからはいつも通り安居酒屋に場を移してからホテルに移動する。終電までに帰りたいという要望があったので、室内と放流までの振る舞いが少々雑になってしまったこと以外はとりあえずこの日の自分を褒めようと思った。

・10/14

昼前、ナンパ師2人にヘアセットを頼まれたので、1人を引き連れてもう一方の自宅へ向かうが、引っ越したばかりでテーブルと布団しかない。これでは何もできないので、目の前の小学校からパイプ椅子を借りてこようとするも、さすがに引き止められたので、近くの飲食店にお邪魔して椅子を借りる。都心からひとつ離れた下町の風情を味わえる商店街はやさしさに溢れていた。ここの店主に感謝する。他人の髪型を整えていて、より強く思うようになったが、髪型の重要性については何度も繰り返し説かれていいはずだ。頭を小さく見せたり、顔幅の補正にはトレーニングによる筋肉量の増加や、服の着こなしの工夫だけに限らず、髪型の調整も加えたほうがよい。各々が時間をかけて似合う髪型を見つけ、練習に励むべきだと思う。「髪型6割、服装3割、顔1割」なんて言葉があるくらいだ。

夕方からは再びアスリート氏に会い、出撃前の腹ごしらえとして中華屋に足を運ぶ。つくづく思うが話題の尽きない人だ。ふと、女の子側に立った気になって考えてみる。なるほど、気付けばうまく乗せられてカラオケなりホテルなりに着いて行ってるかもしれない、そんな感覚。そして、この人は世の中の割り切れない難しさを引き受けながら自分の言葉を捻り出していた。都合のいい景色だけを残し、不都合な瞬間をレタッチして世界を簡単に割り切って見ることは誰にでも出来るが、難しさを引き受ける体力のある人はほんの一握りだと思う。私は彼のそうした部分に惹かれている。食事を終えて外に出ると不運にも雨、数時間ほど声をかけ続けるが、この日の収穫は何も無かった。

・10/15

この日はアスリート氏に接待観光と決めていて、昼前から二人で古都へ足を運ぶ。ここでもまた彼の人生の一端が垣間見える。

「大学の、ある寮に行きたい。関係者と連絡は既にとってある」

彼は数十年前、一時期その寮に住んでいたらしい。ますます興味を引かれる。どういう風に生きていたらそんなところに流れ着くのか、良い意味で変な人だ。しばらくして最寄り駅に到着する。歴史の面影と川のせせらぎ、その反対に望める由緒ある山々、そして秋だというのにかなり肌寒いこの感触、ここにしかないものだと思う。ひとまず、大学構内まで足を進める。キャンパスの現代的な建築物に相反して、すぐ横に古風な建築物が現れる。

ここは1910年代から続く日本最古の学生寄宿舎、70年代以降、全国的に激化した学生運動の拠点の一つと見なされ、寮の廃止を推し進める大学当局と対峙しながら今日に至る。権力との長い闘争の歴史を経てもなお、現存し続ける強度の高い伝統空間だ。現在も居住者の退去と明け渡し請求を巡って大学と寮関係者の間で裁判が繰り広げられている。

受付で関係者と話をつけて入室。撮影は原則禁止で、中には大量のビラや反抗のステイトメントが掲げられていた。そして、色褪せや損壊が激しく、断片にはなるものの、当時の資料もいくつか残っていた。貴重な見学を済ませて玄関口に出ると、鋭い顔つきの寮生に居合わせた。現在、闘争の最中というのはもちろん、かつて他大学の自治寮において大学関係者の密偵活動により、寮生に対しての虚偽告発がなされ、数人が逮捕されるなどの出来事があったからか、外部に対しての視線が厳しいように感じた。アスリート氏に仲介してもらうと少しばかり彼の表情は緩み、数枚の資料をいただく。現存を求めた署名活動を行っているそうだ。存分にこの空間を味わい、恐らく待ち受けているであろう行く末に想いを巡らせながら寮を後にする。

そこからは近くの山とその麓にある神社へ向かった。ここはハイキングに適したなだらかな地形で、子連れや御老人客もちらほら見える。Google画像検索で提示された、山から眺めた街の景色が大変素晴らしいものだったので、今回、彼をここに案内したわけだが、木々の成長に伴って草木が生い茂り、立っている場所から街はすっかり見えなくなっていた。とはいえ、自然の眺望絶佳とは本来は偶然性の産物であって、こういうことが起こるのは当たり前だと思う。人が手を加えてむやみやたらに観光資源化するべきではない。これでいいのだ。

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昼食の後、彼の提案で東山慈照寺へ。小学生振りである。

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応仁の乱が勃発して以降、当時の将軍であった足利義政は寺院が造営途中であったにも関わらず、逃げるようにしてここに移り住んだ。1480年に一条兼良が著した『樵談治要』によれば、応仁の乱で登場した足軽という存在が「洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公家、門家の滅亡」をもたらしていたとき、義政はそうした破壊行動には目もくれず、寺社仏閣の滅亡もそっちのけで洗練された生活文化としての風雅な東山文化の創造に邁進した。しかし、この恐るべき隠遁的為政者の無責任さのおかげで、日本芸術の基本的思想、すなわち「生活の芸術化」が確立された。これを鑑みれば、一方的に義政の評価を下げて済ますわけにもいかない。たしかに、中世における日本最大の内乱とも言える応仁の乱は多くの現実の生活を当時の人々から奪い去った。だが、混乱を尻目に東山山荘の造営に取り組んだ義政が、生花や茶の湯、床の間をはじめ、その後の日本人の美意識や生活空間に及ぼした影響は計り知れない。作庭に関しても、鎌倉末期以来の禅宗の影響によって、庭は平安朝までの浄土的世界観を離れ、坐禅に役立てられるようになっていた(その代表が枯山水)が、義政の手掛けた庭もこうした禅の美学を吸収し、数多くの文化資源を後世に残した。義政は戦乱の喪失と引き換えに、新しい現実の作者となった。ここには、現実に無関心であったからこそ、最も多くの現実を作り得たという逆説がある。何百年も前の人物に想いを馳せながら庭を眺めていると、彼が突然こう言い出す。

「いや~トリップしちゃったよ。"アレ"を使ったときの景色と似た景色が見えるね」

この人は幻覚体験も既に味わっている人だった。一体どうやって"アレ"を手に入れた??私も体験してみたいものだ。ただ、言われてみると、揺れた水面と木々の隙間から差し込む陽光は別世界に転じられるような可能性を感じる。また、この寺の奥には月待山に接する、街を望める高台があったが、それは素晴らしい眺めだった。太陽がとても近くにある印象を受けた。そういえばここは仏教寺院だ。日想観に非常に適した場所だと思う。

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しばらくすると日は暮れて、ライトアップされた下鴨神社に移動する。昼間に出店があったらしく、先にここへ来てもよかった。糺の森は私の中ではデートスポットのひとつで、男と来るのは初めてだが、この場所へ一緒に訪れた女たちとうまくいった試しが一つもないので丁度良いかもしれない。19時を過ぎて辺りもすっかり暗くなった頃、せっかく京都に来たのならと、いつでも行けるようなどこにでもある変わり映えのない景色の安居酒屋ではなく、コンビニでロング缶を買って鴨川デルタに降りる。この近くに下宿しているであろう学生集団や、名前も知られていないシンガーたちがそれぞれのグルーヴを作り出している。素敵な場所だ。ここでは終始、お互いの個人的な話にとどまっていたので書くことはできないが、ただ一つ言えるのは、私はこの活動の中で誰かに出会ったとき、はじめは"ナンパ師"という一般化された認識が、人となりに触れることで"ひとつの人生を背負った人間"という単独性を帯びた認識に変わる瞬間が大好きだということ。

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現在、彼はヒッチハイクで更に西へ移動して九州に滞在している。もう狂人の域だ。今、こんなエネルギッシュな人間と付きっきりで過ごしたことで何かすごいものを貰ったような気がして、明日からの自分が徐々に変わっていくかもしれないと思うようになっている。私にしては随分と前向きな気分だ。この出会いに感謝。