駆け抜けよ

鬱陶しい梅雨をぬけてこれから夏を迎えるという頃、もうすっかり準備の整った強烈な陽射しのもとで真っ青に染められた高い空を見上げていると、ここではないどこかへ行きたくなる。都市生活者というのはそういうものなのだろう。人の欲望や、疲れるほどの情報量を抱えた都市の風景に馴染む者は手つかずの余白の多い原風景に強烈に魅惑される。

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セミの声もいつしか頻繁に聞こえるようになった。夏の風物詩。都市部ではクマゼミアブラゼミの不快な声しか聞こえないが、自分がかつて住んでいた沿岸部の地域ではヒグラシの綺麗な声がよく聞こえていた。この間、箕面の山奥でそれを聞いたのだが、すぐに家の近くにあった海の記憶が立ち返ってきた。もっとも、セミは山にいる生き物なのだけれど、海の記憶と結び付いている。それは成虫になるとひと夏でその生命が尽きてしまう人間には遠く及ばない存在。しかし、全身のエネルギーをもってして常に叫び続けている。その気力と活力は、あの小さな体駆からは想像もつかない異常さだ。我々もあのように全力になれるだろうか。街に出ても気温にやられて弱腰になって声を出す気力すら失うこともある。場合によっては家から1歩も出ないで、ほとんど声を発することなく1日を終えることだってある。ひと夏すら全力を出せない。そう考えると我々はある部分ではセミにすら及ばない存在なのだ。

さて、声かけを本格的にはじめて今月で1年が経つ。結果はすぐに出た方だったが、気持ちがどうも追い付かなかった。たくさんの女性と、とてつもない速度で関係を結ぶのは疲れる。それは今もそうで、5、6人と、多くを抱えきれるような器用さは持ち合わせていない。ただ、その物余り具合への執着も薄れてきた。初期衝動から来るものだったと思う。今は1人、2人でいい。それから、女との向き合い方がこれまでと一変した。「すいません、タイプやと思って」と、媚びるような態度で女と向き合い続けてきた反動からなのか、支配的な態度で接するようになった。良い具合に作用することもあるし、無害さを良しとする女とはもう関われないように作用することもある。そして、長く付き添いたい女性像もいよいよ明確になってきた。たとえばこちらの早口と大声が目立つアッパーな気分を圧倒的な熱量で簡単に上回ってくるような女の子はとても素敵なのだけれど、それは一回性のうちに関係を断ちたい。長い間一緒にいようとは決して思わない。せっかく海の側まで来たのに二人で砂上に座り込んで際限なく続く漣を眺める。全く喋らなくなる時もあるものだから潮騒すら聞こえてくる、そんな穏やかに続いていく関係性を恋愛に望んでいる節がある。

とはいえ、恋愛は公家シンジさんの言うように、お互いが強烈に惹かれあうものであり、また、祝祭的な熱狂の中に2人で閉じるような関係性だと思う。高揚した気分で待ち合わせ、高揚した気分でセックスして、高揚した気分で改札で、ホームの向こう側で互いに手を振る。そしてその高揚はまだ冷めずに帰路のメッセージのやりとりにも続く、そういう具合。実際に潮騒だけでは退屈してしまう時もある。けれども祭囃子を常に聞かされてもそれはそれで苦痛だ。これは今一番悩ましい問題で、だから2年目はこのどちらの関係性にも閉じられるような誰かを探すことを目指す。

自分にはひと夏を片時も休まずに叫び散らすことはできないが、長くしぶとく続けていく。決して空は飛ばない、地に足をつけて緩やかに。