拗らせ

7月、ついには気候が安定しなくなった。温度と空気の湿り具合は増す一方で、ぬるま湯に浸かっているような気分だ。低気圧は軽い頭痛を引き起こし、水蒸気は悪臭の分子を空気中にふんだんに押し出す。朝方の電車内なんていうのは最悪だ。また、時間をかけて整えた髪型はすぐにへたって崩れ、お気に入りの靴には雨水が染み込み、気分を一層害していく。この島国において最も居心地の悪い時期であろう。思えば、生活の全てを自然環境に依存した時代の集団にとって雨は欠かせなかった。弥生人は灌漑設備や井戸水が涸れないように、祭祀具を以て空に祈りをささげ、続く中世の人々も請い祈るほどに雨を求めていた。旱魃が続いた西院帝の治世、勅命を受けた空海平安京大内裏に接する神泉苑にて、雨乞いのセレモニーを催した。だが、我々近代人にとって、雨などというのは生活の妨げでしかない。今日、雨を願っているのは体育科の授業で持久走が課されている中高生くらいであろう。とはいえ、どれだけ不満を垂れてもしばらくこの感じは続く。食欲も減退気味で固形物も一食しか食べられない日が出てきてしまうが、それでも最低限は食わなければ代謝が落ちて見た目が衰えていくので、無理矢理に饅頭なんかを口にねじ込んだりする。

f:id:ilE:20230703124637j:image

性愛の享楽には自らの拗らせた自意識や態度と向き合う必要がある。女と繋がれない者はそのことに気付いていない、ものだと思っていた。もちろん、多くはそうである。そもそも、自らが拗らせている自覚がなく、技術や理論を腹に落とせば諸問題は解決すると考えている。ただ、これは実相のひとつに過ぎない。本当のところはとうに自らの問題に気付いていて、それを何とかしなければならないのを分かってはいても、虚栄心や情けなさから向き合いたくないというのもひとつの実相であった。それは街にいる拗らせに拗らせたスト師たちとの対話の中で気づいたことだ。

褒められて喜ばない人間はそう多くないだろう。あるスト師が女を褒めているところを聞いたことがないので、目の前の女の良いと思った瞬間を丁寧にすくって素直に褒めてみてはどうかと尋ねた。すると、褒めることは女への媚びに繋がると思っているので褒めたくないという旨を伝えられた。本人曰く、褒めることは与えることと同じであり、与えることは媚びだという。加えて、彼は学生時代に女に与えるだけ与えて何も返ってこなかった苦い思い出があるそうだ。その体験と先の認識が相まって拗らせた自意識が生まれ「褒めたくない」に転じたのである。また、あるスト師は人から「怖がられる」ことについて悩んでいた。私は彼に対して、接しやすさや居心地の良さが作れていない、それは男女問わず仲良くなる上で欠かすことができず、それらを醸成するにはピエロになって笑いをとってみたり、自らの失敗談を語ってみたりするべきだと述べた。すると、いじられるという状況が過去に女に虐げられた経験を思い起こすためにそれはできないとの応答が飛んできた。また、当人は日頃、人から敬われる社会的役割を担っている職業に就いているが故に尊敬を感じないコミュニケーションは受け入れ難いと言う。

このような具合だ。彼等の向かう先は拗らせた自意識や態度と向き合わないで女とつながる方法の模索である。たとえば、見た目が受け入れられればすべての要求が通るので、自らが抱えている問題と向き合わずに済むと考え「スト値上げ」「スト値上げ」と反芻する。さらには技術や理論についての理解さえあれば女を動かせると考え「即るための会話・振る舞い」についての情報を収集することだけに注力する。

こんな状態で講習を受けても良くならないだろう。胸が痛むような指摘よりも「あなたには力があります」「私のもとで技術さえ身に付ければ」といった甘言だけを求めるようになる。

快適な空間づくりなしに人とつながることはできない。どれだけ苦しい過去があろうとも、目の前にいる女の子にとって、そんなものは一切関係ない。「目を背けたくなる辛い過去があって、気持ち悪いコミュニケーションをあなたにとってしまうかもしれないけれど受け入れてほしい」なんて独り善がりは通用しない。どれだけ人から敬われる社会的役割を担っているからといって、路上でも同じ扱いを受けるわけでは決してない。東大卒のエリートがアイコス片手に露出高めの服で着飾った中卒の女に暴言を吐かれる。世界のことなど何も考えずに街をふらつき、ただセックスの機会に恵まれているだけの美男子が神格化されて、汗水流して働いているあなたがぞんざいに扱われる、そういう世界。

徹底して絶望すればいい。地に落ちればいい。そこで自らの至らなさや無力さを知り、なんとかして這い上がったとき、はじめて世界が色づいて見える。