グッバイ

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昨日と今日の境目の無いふしだらでだらしのない毎日を送っているせいで寝床に就く時間がバラバラである。どうにかしてルーティンという軸を生み出さなければならない。何でもいい、日付が変わる頃に目を閉じて、外が明るくなれば目を開く口実を。

近頃思うことありて、行きつけの飲食店(一時おかわり有料化を巡って話題になった先に食券を渡す形式のところ)にはいつもある種のグルーヴがある。肉体労働で疲れきり、口にひたすら米を流し込む中年の男性。イヤホンマイクで誰かと通話をしながら食事をする品のない女。自分はデキる営業マンですと言わんばかりの、ジェルで髪に光沢感を出しいかにもな格好をしたサラリーマン。席は向かい合っているがお互いの顔を合わせて話す様子はなく、さっさと食事を済ませて携帯の画面に没頭するオタクっぽい二人。多種多様なムードを内包しつつ、そこには無干渉だ。しかし確かに存在していることをお互い肩で認知し合っている。手を取り一体となるだけではなく、干渉はしないが繋がりはあるというグルーヴも存在することをここでこの前学んだ。

さて、ここ数ヶ月、何度も「別れ」の機会に直面している。やはり変わっていくことは避けられないのだと、当然ではあるけれどそう強く感じる。どんな形であれ出会うことができているその時間がいかに尊いか、それをどうしてもリアルタイムで感じるのは難しい。これから十年が経ち、二十年が経ち、その数は増えていくばかりだろう。この活動をずっとやり続けるなら尚更だ。でも、どうせなら消えていくモノを数えて悲しみを積み上げることに時間を割くのではなく、今の生きた時間を刻みつけることに力を注ぎたい。

いなくなるということは、そこにいたということ。