2年

ふと、祖母の実家の長押に立て掛けてある名前すらも知らない会ったこともない先祖の写真を思い出した。呼ばれている?

“お盆”

会うことができなくなった人や、かつて人と呼ばれていた何かともう一度会う。にわかに信じられにくい行事がこの渇ききった現代でもしっかりと残されているのは素敵なことだと思う。先祖挨拶を済ませ、墓前に線香を添えながら自らの来るべきときを考えた。私は炎天下に墓を磨きに来てもらえるような立場になっているのだろうか、途方もなく遠い先のことで検討もつかないが、なんとなくそうにもなれなさそうだ。悲しい。

帰りに立ち寄った公園の木々に蝉の脱け殻が張り付いていた。それを右手でつまむとその透明な身体は軽かった。いずれ朽ちて八月の風に乗せられるだろう。人間なんかよりよっぽど美しい死後の処理のされ方だと思う。私もできることならそうなりたい。

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ずっと内側に留まっていた重たい空気がついには全身へと循環していった。そのせいで街へ出るのも、言葉を発するのも、どんな些細なことでも通常より少し遅れてしまう。無念にもウィルスが去ってめでたく迎えられたこの最初の夏はそのような具合だった。だから思い出の更新もこれといってしていない。次の年になにか出来ればいいと、毎年そんなことを思っては夏を重ねていく。

この時期になると決まって街中で胡散臭い連中が戦争がどうだの、天皇がどうだのと吠える。この前も駅前でそのような光景を目撃した。戦後78年、終戦よりも前に産まれた人は必ず70歳以上。平均寿命からいえば戦争を体験した人が殆どいないという状態。今どれだけ「戦争の惨状」や「人の命の尊さ」を言葉にしたところで、実感が伴っていないから詭弁にしか聞こえず、暴力的な言葉に対抗するには明らかに弱い。ウクライナとロシアはめちゃくちゃになったし、実際、戦争反対の声というのは脇に追いやられているという現状がある。とはいえ、こういう危機感はあっても毎日こんなことを考える余裕がないというのが本音だ。

皮肉にも、この島国で香る火薬の匂いは平和の象徴だったりする。

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さて、この活動を本格的に始めて今月で2年になる。これといって振り返ることはないが、こんな自分にも面倒をみてほしいと名乗り出てくれる人がちらほら現れるようになった。感謝している。そうしたところで、ここでは今、変われずにもがいている人たちに向けたテキストを書こうと思う。

変われない人の多くは主客未分の状態に入っていない。それは主体が単一でただ客体のバリエーションがあるのみで、主体と客体の関わりがつねに一対一でありながら、ひとつの客体に飽きたら次の客体を選ぶという形で横滑りしていくだけの状態にある。ここでの主体というのは自己で、客体というのは他者の実践の方法。多くは実践の方法を知るだけで、それに飽きたらまた別の方法を探す。その繰り返し。

「RTしたツイートを参考にします」「教材を買いました」「次はこの講習を受けようと思います」

これでは何も変われない。なぜなら、それらの方法は当人であるが故に実践し得るから。これでは単なる消費に過ぎず、自分の内側に他者を取り入れ、自分と他者の間にある境目を限りなく埋める状態にまで持っていかなければ真に実践することはできない。言ってみれば「自分が他者になりきる」ことではじめて実践できるということ。不動の自己は決してなく、あるときは主体あるときは客体と、袋詰め的に役割が転換して、二項がどんどん入れ替わりながら自分が生成されていく。それが主客未分の状態。他者を取り込んだ自分が今のどうしようもない至らない自分を補完する状態であるとも言える。理想形だと思う。私は私であるときもあれば、私でない誰かになっているときもある。

私が尊敬する人たちは皆、この状態にあって、誰かに憧れてこの世界に足を踏み入れたと言う。女とつながりたいと願い、技術を習得して女とつながれるようになったというよりも、女と難なくつながることができるその人になるために、自らの内にその人を取り込むようになって、気付いたら女とつながれるようになったという感覚だ。あなたも方法論の消費をやめて、なりたいと思う誰かを見つけて内に取り込んでほしい。そのプロセスさえ始まってしまえば、どんどん自分が変化していく。自分が変化していけば豊かになっていく。変化のプロセスを自分で止めない限り、あとは恐怖や不安と戦うだけだ。変化を止めてしまいそうになる自分と向き合うだけ。もちろん、自分が誰かになることは怖いだろう。それは急に自分が死ぬということでもあるから。ただ、実際には自分から急に特殊な誰かになれるわけではない。短期間でさまざまな経験をするとか、さまざまな人物を内面に取り込むのは、量的に考えても無理だ。部分的に小さな死を繰り返して誰かを取り込んだ自分として再生していくのだ。

変化のプロセスに身を任せよ。消費から制作へ。